フレデリック・マサイアス・アレクサンダー(1869-1955) 。アレクサンダーテクニークの発見者。
ソマティック・エデュケーションと今日言われるワーク(心身を一体として扱う教育、トーマス・ハンナの造語)の走りとなり、後発のワークに影響を与えた(例えばフェルデンクライス・メソードやストラクチュアル・インテグレーション)。
ただし、ソマティック。エデュケーションという用語は、アメリカ人のアレクサンダーテクニーク教師には通じるが、イギリス人のアレクサンダーテクニーク教師には通じない。
またソマティック心理学に強い影響を与える。
同時代の多くの文化人や科学者の支持を得た。
ちなみにカール・グスタフ・ユング(1975-1961)とは同時代人だが、終生交わることはなかった。
Contents
アレクサンダーテクニークの発見者F.M.アレクサンダーの生涯
問題の多い神童
F.M.は通称。オーストラリア・タスマニア島生まれ。開拓民で農場経営者の父と助産師の母とのあいだに生まれる。アレクサンダー・テクニークの創始者。
集団生活は苦手で、小学校にはほとんど行かず、森や農場で過ごす。イギリスから転地療法のためにやってきた教師が、少年だったF.M.に霊性のほとばしりを感じ、放課後に勉強を教えに来てくれた。そして、その片田舎の学校は、F.M.の書いた作品のためにオーストラリア政府から何度も表彰される。問題のある神童であった。今日的に言う、多動であったのかもしれない。
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アレクサンダーテクニークの発見者、俳優を志す
当時のオーストラリアでは、オーストラリア政府と演劇界が結託して、シェイクスピアの戯曲の一説を舞台で朗読する演劇が流行っていた(流行らすことには成功したが、当初の目的であったイギリス英語をオーストラリアで普及させるという目的は達成できなかった)。
アレクサンダー少年は舞台に感動し、自らの俳優を志し、順調なスタートを切った。
17歳のときに舞台で声を失い、自分自身で解決することにする。
観察の結果、分かったことは驚くべきことだった。何か活動を行おうとすると、その瞬間に自分自身のコーディネーション(からだの有機的なつながり)をじゃまする癖(くせ)の動きが起こる。その結果、不調や故障につながる。
今日アレクサンダーテクニークと呼ばれているメソッドを開発し、教え始める
7年の観察と実験を経て、なにかをしようとするときに、少し待って(インヒビション)、自分自身に方向を与える(ディレクション)ことによって、癖をやめることに成功し、24歳のときに舞台に復帰。
同時に生徒たちが集まり始め、教え始める。
1900年、シドニーの演劇学校に招聘され、校長に就任。なお、この学校は後にNHKの人気番組「英語でしゃべらナイト」で、取り上げられた。タレントで女優の釈由美子さんが取材をした。
アレクサンダーテクニークの発見者の渡英
1904年に渡英。以降の生涯をほとんどイギリスで過ごす。発声に課題のある多くの俳優たちに指導し、劇場の守護者と呼ばれるようになる。また多くの文化人や科学者たちにも教えた。
アレクサンダーテクニークの原理を生かしたリトルスクール開講
アレクサンダーテクニークの原理に基づいた教育を行うために、支援者たちの出資を得てリトル・スクールを創設。弟子でモンテッソーリ教育の教師のアイリーニ・タスカーにふたんの指導を任せた(第2次大戦中にリトル・スクールは閉校した)。
アレクサンダーテクニーク教師の訓練コースをスタート
1930年代後半に、第1回教師養成コースを開講した。
第2次大戦中は教師養成コースを休止し、一時アメリカで教える。
戦後、教師養成コースを再開する。
晩年に大きな交通事故に遭い、医師からは歩くのは絶望的と宣告されるが、自力で回復する。しかし、目は事故の影響で悪くなった。あるとき、メガネが合わなくなり、検眼してもらったところ、検眼士は、「あなたにはメガネは必要ありません」と言った。
最後まで奇跡的なワークを行い、1955年に惜しまれつつ、この世を去った。
アレクサンダーテクニークのレッスンのスタイル
アレクサンダー・テクニークの伝統的なプロシジャ(手順)を中心に教えた。
「気の弱い人にはとても優しく親切に、ガキ大将的な人には非常に厳しく教えた」と直弟子のエリザベス・ウォーカー氏が2002年来日時に語った。
アレクサンダーテクニークのレッスンの主な生徒(一般)
ジョージ・バーナード・ショウ
アイルランド出身の劇作家。イギリスで活躍。1925年にはノーベル文学賞を受賞した。
ジョン・デューイ
アメリカの教育哲学者。F.M.の3冊の著作の序文を書く。
オールダス・ハクスレー
イギリスの作家
リットン卿
政治家 リットン調査団の団長を務め、満州国の実態を調べた
シェリントン
生理学者。今日の脳科学の基礎を作る。後にノーベル医学・生理学賞を受賞。F.M.の知恵袋
ピーター・マクドナルド
イギリス医師会会長を務め、息子のパトリックにアレクサンダーテクニークを学ばせた。F.M.の有力な支援者のひとり。
主な生徒(アレクサンダーテクニーク教師)
A.R.アレクサンダー
教師養成コース開始前からF.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
ガキ大将的な性格が災いして、第1回教師養成コースの途中で渡米する。
詳細は、こちらをご参照ください。
アイリーニ・タスカー
教師養成コース開始前からF.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
後にF.M.の要請で、第2次世界大戦中に南アフリカに渡り、独立した教師として教え始める。
詳細は、アイリーニ・タスカーをご参照ください。
エセル・ウェブ
教師養成コース開始前からF.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。またF.M.アレクサンダーの秘書を務めた。F.M.への個人崇拝が強かったと言われている。
詳細は、こちらをご参照ください。
マージョリー・バーストウ
アメリカ合衆国ネブラスカ州リンカーンの富農の娘。
A.R.アレクサンダーのアシスタントを務める。
第1回教師養成コースに参加。自主練習の会にはパトリック・マクドナルドを中心とする会に出た。
1957年のSTATの創設に参加せず、独自の道を歩んだ。
詳細は、こちらをご参照ください。
ウォルター・カリントン
F.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
第2回教師養成コースに参加。戦争のためにトレーニングは休止され、応召してパイロットとして出征し、撃墜される。終生両股関節に人工関節を入れる。
温厚な性格で、終生F.M.アレクサンダーと良好な関係を保ったが、そのために盟友パトリック・マクドナルドとの距離が開いていった。
カール・ロジャースのパースン・センタード・アプローチを先取りするワークを行う。
トレーニング・コースを作り、多くの教師たちを養成した。
詳細は、こちらをご参照ください。
ルーリー・ウェストフェルト
アメリカ合衆国出身
小児麻痺のため少女時代に足首を固定する手術を受けるが、ますます「からだ」が不自由になった。
誤解から、F.M.アレクサンダーのことを恨み、著作でF.M.&A.R.アレクサンダーをこき下ろした。
晩年はテーブルワークのみ行ったと伝えられている。
詳細はこちらへ。
パトリック・マクドナルド
F.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
トレーニング・コース在学中に、”Allow the neck to be free”とは環椎後頭関節を自由にすることだと喝破する。
トレーニング・コース在学中に、自主勉強会を始めることを提案する。
アレクサンダーテクニークの健全で継続的な発展のために、早くから教師の協会を作ることをF.M.に提案し、譲歩を引き出しつつ根気強く交渉を続け、そのためにF.M.との関係を壊す。F.M.の死後の死後に協会を作ることができた
トレーニング・コースを作り、多くの教師たちを養成した。
詳細は、こちらをご参照ください。
マージョリー・バーロウ
F.M.&A.R.アレクサンダーの姪。
F.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
詳細はこちらへ。
ウィルフレッド・バーロウ
医師。マージョリー・バーロウの夫。F.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
ディック・ウォーカー
F.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
第2回教師養成コースを修了する
F.M.アレクサンダーの要請で、アイリーニ・タスカーの後任として、妻でアレクサンダーテクニーク教師のエリザベスとともに南アフリカに渡る。
オックスフォードで教師養成コースを開講した。
エリザベス・ウォーカー
ディックの妻。
第2回教師養成コースを修了する
レントゲン技師として、エリザベス2世のレントゲン写真を撮る(筆者がご本人から伺う)。
夫のディックとともに南アフリカに渡る。入獄前のネルソン・マンデラと交流。
オックスフォードで教師養成コースを開講した。
最後のマスター・ティーチャー。
スコット
F.M.アレクサンダーのアシスタントを務める。
才能を惜しまれつつ、早逝する。
アレクサンダーテクニークに関わる人たちが、出身母校でグループを作り、互いに口も聞かない状況に危惧を覚え、交流会を行う。
彼の理想は、その交流会に出たマイケル・フレデリック(ウォルター・カリントンの教師養成コース出身)に引き継がれ、インターナショナル・コングレスとして実現する。
フランク・ピアース・ジョーンズ
タフツ大学心理学教授。A.R.アレクサンダーと終生良好な関係を築いた。”Freedom to change”を著す。
バズ・ガマリー
震える病気のため、ほとんど教えることはなかった。2008年に亡くなる。イギリスでは無名。
主著
Mans Supreme Inheritance – Conscious Guidance and Control in Relation to Human Evolution in Civilization by F. M. Alexander (1918)
Constructive Conscious Control of the Individual by F. M. Alexander (1923)
The Use of the Self – Its conscious direction in relation to diagnosis, functioning and the control of reaction, 1985 Edition, London: Orion Books, 7-12. ISBN 978-0-7528-4391-9. by F. M. Alexander (1932).
The Universal Constant in Living by F. M. Alexander (1941)