Patrick Macdonald.
パトリック・マクドナルドは、アレクサンダーテクニークの発見者F.M.アレクサンダー(1869-1955)から直接訓練を受けた第1世代のアレクサンダー・テクニークの教師。
生涯
父親は英国医師協会会長も務め、F.M.アレクサンダーの有力な支持者ピーター・マクドナルド。その関係から子ども時代からF.M.アレクサンダー本人から、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた。
本人はF.M.アレクサンダーから直接訓練を受けた第一世代の代表的な教師。アレクサンダーテクニークの教師になった後は、F.M.のアシスタントを務めた。
先天性前弯を患い、そのため生涯にわたって自分自身に強力なディレクションを与え続けた。病気は障害治らなかったが、青年時代はボクシングなどの激しいスポーツもしたので、病気の影響はアレクサンダー・テクニークの実践で跳ね除けたといえる。
アレクサンダーテクニークの第1回教師養成コース
アレクサンダーテクニークの第1回トレーニングの途中で、他のトレーニー(訓練生)たちに呼びかけ、トレーニーによる自主練習会を呼びかけた。この自主練習会によって、いちばん最初の訓練生たちは、手と言葉を使って適切に教えることができるようになった。
まもなくグループは2つに分かれたが、その1つの中心人物になった。
ちなみに、アメリカ合衆国から教師養成コースに参加した2人の女性、マージョリー・バーストウとルーリー・ウェストフェルトはマクドナルドのグループに参加した。
解剖学にもよく通じており、第1回トレーニング中に、アレクサンダー・テクニークの代表的な4つのディレクションの一部のallow the neck to be freeの意味が、「環椎後頭関節を自由にする」ことだと喝破した(マージョリー・バーロウ著”An examined life”を参照)。
F.M.アレクサンダーの生前から、教師による協会の設立に尽力し(それも災いしてF.M.と必ずしも良好な関係を保つことはできなかった)、根気強くF.M.アレクサンダーと交渉を続け、譲歩を引き出した。マクドナルドは、タフ・ネゴシエーターであった。
しかし、実際に協会を設立できたのは、F.M.アレクサンダーの死後である。1957年にSTAT(The Society of the teachers of the Alexander Technique)設立の中心メンバーとなった。
なお、父のピーター・マクドナルドがF.M.アレクサンダーの有力な支持者であったこともあり、パトリック・マクドナルドには、最初からアレクサンダーテクニーク教師という職業を確固としたものにしようという志が強かったのではないかと考えられる。
交友関係
アレクサンダーテクニーク教師のウォルター・カリントンとは関係を壊したが、アレクサンダーテクニーク教師で、アレクサンダーテクニークの発見者のF.M.アレクサンダーの姪のマージョリー・バーロウ(F.M.とA.R.の姪で、アレクサンダーテクニーク教師のウィルフレッド・バーロウの妻)とは生涯良好な関係を保った。
マージョリー・バーロウの”An examined life”によると、マクドナルドとカリントンは、アレクサンダーテクニーク教師の訓練中はとても親しく、常に昼食を共にしていたが、教師による協会の設立をカリントンが後押ししてくれなかったことが不仲になるきっかけになったのではないかと考えられるとのこと。
なお、マクドナルドがカリントンと女性(マージョリー・バーロウ)を取り合ったから不仲になったという風聞は、イギリス人のつまらない冗談らしい。
マージョリー・バーロウによれば、パトリックは直接訓練したすべてのアレクサンダーテクニーク教師たちをマージョリー・バーロウのもとに送りレッスンを受けさせたという(マージョリー・バーロウ著”An examined life”を参照)。
多くのアレクサンダーテクニーク教師を養成
多くのアレクサンダーテクニーク教師を育て、アレクサンダーテクニークの伝統的な教え方の2代潮流の1つ、マクドナルド系と呼ばれている。
アレクサンダーテクニークのレッスンのスタイル
–
アレクサンダー・テクニークの伝統的なプロシージャー(手順)を中心に教えた。
機能的優位な姿勢をとるときに、足を広く広げ、胴体をあまり傾けない。Back directionを非常に重視した。
お弟子さんたちは、一見みな同じようなスタイルでレッスンするが、その手から与える情報にはおひとりおひとりかなりの多様性があり、系統として豊かだと言える。
敬意を払われてアレクサンダーテクニークのマスター・ティーチャーと呼ばれた方たちで、個人的に2番目に共感するのは、パトリック・マクドナルド師である。