潜在意識

F.M.アレクサンダー(1869-1955)の言う潜在意識は、気づきの浅い領域である。

何らかの刺激に対して、あたかも反射的に、私たち自身や私たちのアクティビティに不利益な反応を引き起こす、私たちの領域のことである。あるいは、私たち自身を乱暴に扱う、私たちに備わった働きである。あるいは善悪でジャッジする私たちに備わった領域である。

 

F.M.アレクサンダーの生徒であった、作家のオルダス・ハクスリーは、個人的潜在意識と呼んだ。古代の哲学者プロティノスの影響も受けていたハクスリーは、自己の深層により普遍的な非自己があると考えていた。そのような普遍的な非自己との区別するために、”個人的”潜在意識と呼んだのだろう。

コラム『アレクサンダー・テクニークで人生が変わる—オルダス・ハクスリーはかく語りき』をご参照ください。

 

私たち自身と深くつながるために、すなわち潜在意識によるあたかも反射的な反応をやめるための方法として、アレクサンダーテクニークでは、インヒビションディレクションの手順を用いる。

 

他のメソッドの混同しやすい用語

F.M.アレクサンダーと同時代人のC.G.ユング(1875-1961)や彼の追従者による無意識の定義(例えば、ユングの入門書に掲載されることの多い、氷山の水面下の豊饒な領域)とは異なる。

 

またアメリカの催眠療法の権威であるミルトン・エリクソン(1901-1980)や、エリクソンに影響を受けたNLP(神経言語プログラミング)の無意識の定義とは異なる。

 

F.M.アレクサンダーの用例に従えば、潜在意識は私たち自身の深いところにある希望にあふれた領域ではなく、また人類に普遍のなにか素晴らしい豊かな可能性という意味では、けっしてない。

 

そうではなく、潜在意識は、刺激に対する反応や、本人は気づいていないが、行動のパターンに明らかに影響を与え顕在化している。しかも本人は気づきが浅いために、気づいていないものである。

 

ユング心理学研究会 会長代行の白田信重氏によると、ユングが扱う臨床での無意識の機能も(精神的になんらかトラブルを抱えている患者の無意識の機能-ユングは精神科医心理臨床家であった)、F.M.アレクサンダーの潜在意識のこのような働きに近いそうである(ユング心理学研究会における白田氏の講座で教えていただいた)。だからこそ、用心深く両者を用心深く区別する必要がある。

 

なぜならば、ユングは無意識を一方で、可能性の眠る豊饒な領域と称揚しつつも(よく知られている定義)、他方で問題を引き起こす領域とも考えていたのであり、無意識に肯定的な働きと否定的な働きがあるとしている。したがって用いられる文脈によって著しく意味が異なるからだ。

 

もし本当にユングの無意識に肯定的な機能と否定的な機能があるとすれば、敢えてそのような無意識をわざわざ定義する必要があったかについて、個人的にはかなり疑問に感じる。

 

「私たちはうまく機能しているときもあるし、私たちはうまく機能していないこともある」という文章と「私たちの無意識はうまく機能しているときもあるし、私たちの無意識はうまく機能しないこともある」という文章のどこが異なるのか。後者は実はなにも言い得ていないのではないかと思うのは、私だけであろうか?

 

「私たち」を「私たちの無意識」に言い換えているだけで、特に目新しいことは何も言っていないのだ。

 

 

ユングの定義に比べると、F.M.アレクサンダーの潜在意識の定義は、とてもシンプルで、用例の混乱(文脈による読み替え作業がいらないという意味)が少ない。また刺激に対して、あたかも反射的に反応する私たち人間の特徴をよく捉えている。

 

 

もちろんF.M.アレクサンダーは、私たち人間に豊かな可能性があることを肯定している。わざわざ私たちの豊かな可能性を表現するために、潜在意識や無意識などという用語をわざわざ用いないのだ。

むしろユングのように、わざわざそのような領域があるものとして、そこに豊かな可能性があると言うのは、ずいぶん遠回りではないか。

 

辞典や辞書の定義

ちなみに手元にあるオックスフォード現代英英辞典によると、subconsciousは

形容詞の意味は、「私たちが気づいていないのにもかかわらず、私たちの行動に影響を与える感情に関わる」

と書いてある(もちろん英語で)。

名詞の意味は、「人が自分では気づかない感情を含む人の心の領域の部分」

と書いていある(もちろん英語で)。

 

三省堂の新明解国語辞典には、「自分では少しも意識しないが、その人の行動や考えに影響を及ぼしている心の働き」

と書いてある。