医師で、解剖学者で、人類学者のレイモンド・ダート博士(1893年2月4日 – 1988年11月22日)は、アレクサンダーテクニークのレッスンを一般の生徒として受けていた。
人類学者としては、アウストラロピテクスを発見するも、1925年の論文発表当時は世界中から冷笑を受ける。
後年世界的に彼の業績が認められるようになった頃、南アフリカ共和国では、悪名高い人種隔離政策が法制として確立され(1948年)、南アフリカ共和国では冷遇され続ける。
F.M.アレクサンダー・テクニークのレッスンを受け始めたのは1943年以降で、彼とその家族は継続してアイリーニ・タスカーよりレッスンを受けた※1。
1943年に1度だけF.M.アレクサンダー自身からもレッスンを受けた※2
ダート博士の研究成果とアレクサンダーテクニークの理解から、ジョーン・マーレイとアレクサンダー・マーレイによって、ダート・プロシージャーが作られ※2、ふたりは1967年にダート博士にプレゼンテーションを行った※3。
参照
”SKILL AND POISE” Raymond A. Dart 1946-1947
ウィキペデアのレイモンド・ダートの項。アパルトヘイト(人種隔離政策)の項
※1 レイモンド・ダート博士自身が書いた、An Anatomist’s Tribute to F.Matthias Alexander を参照した。
※2 そのようにあるアレクサンダー教師から教えていただいたが、同様のことがこちらのページに記載してある。
※3 “The Dart Procedures” Alexander Murray