アレクサンダーテクニークで出来事に振り回されるのはやめよう
私たちは、みんな目の前のものに没頭したり、感動したりしてします。
そして、残念なことではありますが、たいていそういったものは流れ去ってしまう。そして、それでもなお、特定の対象や出来事にしがみついてしまう。
それでは単に世界に振り回されているだけです。あるいは、過去の感覚、もしかしたら絵空事かもしれない作り事にとらわれているだけです。
でも、そこには自由がありません。
存在しないものを生み出す能力を磨く
世界に向き合って、今に向かって開いていて、でも一方的に受身にならずに、絵空事にしがみつくこともなく、積極的に自分自身の道を切り拓くには、ヴィジョンを持つことが必要になります。ビジョンとは、存在しないものを生み出す能力です(このヴィジョンの定義は、赤坂真理さんの「愛と暴力の戦後とその後」を参照しました)。
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- 今まで存在しなかった演奏
- 今まで表現しえなかった踊り(ダンス)
- 今まで実現されなかった組織や企業体の在り方
- 今まで行われなかった、人を導く教育
では、それらを実現するために、そういうヴィジョンを持つために、私たちはどうしたらよいのでしょう?
存在しないものを生み出すためにアレクサンダーテクニークを使う
古代のアレクサンドリアの哲学者プロティノスをヒントにアレクサンダーテクニークを磨く
数年前から出入りしていたユング心理学研究会で(かわかみは2017年6月までユング心理学研究会の理事を務めました)、2010年の秋にプロティノスに出会いました。
なんでユング心理学研究会に出入りしていたのかというと、カール・グスタフ・ユング(1875-1961)とアレクサンダー・テクニークの創始者F.M.アレクサンダー(1869-1955)は完全に同時代人だからです。当時の時代の空気を知りたいというのが動機でした。幸いこの研究会では、ユングだけではなくヨーロッパの思想を広く扱ってくれました。
プロティノスは今から1750年前のアレクサンドリアの哲学者で、彼より500年前の哲学者プラトンの哲学、一言でいうと”作る”哲学をを体系化した方です。そしてユングの書棚にも著書は並んでいました。アレクサンダーの書棚には。。。知る由もありませんが。。。
プロティノスの本の中に素敵な文章を見つけました。
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この内なる眼は何を見るのか。
目覚めたばかりの時では、この眼も、明るく輝くものを充分に眺めるわけにはいかない。したがって魂自身に、まず美しい仕事を眺める習慣をつけさせる必要がある。
次いで美しい作品、と言っても技術芸術の作り出す作品ではなく、善い人と呼ばれる人々の作る作品を眺める習慣を養わせる必要がある。
続いて、この美しい作品を作る人々の魂を見ることである。
だがいかにすれば、善い魂の素晴らしい美しさがどんなものかを見ることが できるようになるだろう。
汝自身に立ち帰り、汝自身を見よ、これがその方法である。
たとえ未だ美しくない自分を、君が見たとしても、彫刻家のように振舞うべきである。
彫刻家は美しい作品に仕上げなければならない大理石を前にして、あるいは削り、あるいは滑らかにし、あるいは磨き、あるいは拭い、ついに大理石の中に美しい顔を浮き出させるに至る。これが彫刻家のとる道だが、君もそのように、余分な不必要な部分はすべて取り除き、曲がった部分はすべて正すべきである。
暗い部分はすべてを浄めて、明るく輝くようにしなければならない、汝自身の像を刻む、この務めを中絶してはならない。このように努めてゆけば、遂には徳の神的光が君の前に輝き出でるであろう。遂には「節制の美徳が聖なる台座に就く」光景に君も接することができるようになるだろう。
もし君がそうなり、それを見たとする。君は清められて君自身と合一化したとする。
そうなれば、その一体化を妨げるものは何もなく、君自身のうちには、いかなる異質の夾雑物もなく、君自身はあまず所なく純粋な真の光である。その光は大きさによって測定できる性質のものではない。小さくせばめても、その形は定められない。無限に拡大しても、その形を定めるわけにはいかない。その光は、いわばあらゆる尺度より大なるもの、あらゆる量を超えるものという意味で、およそ測定不可能なものである。
君がもしこの状態に達し、君自身を見たとすれば、君はすでに視る力そのものであり、揺るぎなき自身を有している。
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以上はプロティノス著 斎藤忍随・左近司祥子訳「美について」P87-88 (講談社学術文庫)より引用しました。
研究者の方たちが指摘するように、この文書はプラトンの『饗宴』のエピソードが大きく影響を与えています。
『饗宴』には、女性の哲学者ディオティマから、特定の対象に対して 「まず恋しなさい」とソクラテスが叱責を受けている様子が描かれています。そして、このプロティノスの文章の方は「饗宴」のディオティマのやり方をより具体的に説明していると言えます。
プラトンは「イデア」を、プロティノスはそのさらに上位のものとして「一者(いっしゃ)」を提唱したのですが、上記の文章は「一者」に到達する方法なのです。このプロティノスの考え方は換骨奪取されて初期キリスト教会の教父アウグスティヌスの神学‐ひいては現在のキリスト教会に影響を与えました。一般的にはアリストテレスの影響を受けたといわれていますが、実はプロティノスの後裔たち、新プラトン主義者たちの解釈に基づくアリストテレスの哲学の影響を受けました。
そして、同様なことがアリストテレスの哲学がイスラム世界に受容されるときにも起こりました。
また近代以降ユングをはじめとする人間の霊性に関心のある人たちにも大きな影響を与えました。
プロティノスの書いたことは、テヘラン大学や慶応大学で教鞭をとった故井筒俊彦博士によって、インドの不二一元論との類似性も指摘されていますが、ヨーガともっとも大きく異なるところは、プロティノスは特別な時間と場所を必要とする瞑想を推奨している訳でも、瞑想のやり方を書いているのではないということです。そうではなくて日常の活動の中でできることを書いているのです。そして、それはアレクサンダー・テクニークと親和性が高いと言えます。
プロティノスは上記の方法で、「一者」に合一することが生涯で何回にも及んだのだそうです。所謂神秘体験です。
刺激に対する反応を変える(アレクサンダーテクニークの原理)ためには普遍的な価値を持つ必要がある
しかし、仮に神秘体験をしないとしても、より普遍的な価値、あるいは美というものを追求していくことは、私たちが周囲の刺激に振り回されすぎないために、あるいは思い込みに固執して窒息してしまわないために、そして確実に成長するために不可欠です。
刺激に対する反応を変えることは、まさにアレクサンダーテクニークの原理の1つです。
そしてプロティノスは「一者」に合一するために最初に必要なことは、「汝自身に立ち帰り、汝自身を見よ」と言います。
少し補いながら言い換えると、周囲の環境や空間にじゅうぶんな注意を払いながら、同時に何かが起きたときにあるいは何かをしようとしたときに私たち自身の反応を観察することが第1歩なのです。これをアレクサンダーテクニークでは、注意の統一場と言います(アレクサンダーテクニーク教師でタフツ大学心理学教授ののフランク・ピアース・ジョーンズの造語)。
プロティノスは言います。「たとえ未だ美しくない自分を、君が見たとしても、彫刻家のように振舞うべきである。彫刻家は美しい作品に仕上げなければならない大理石を前にして、あるいは削り、あるいは滑らかにし、あるいは磨き、あるいは拭い、ついに大理石の中に美しい顔を浮き出させるに至る。これが彫刻家のとる道だが、君もそのように、余分な不必要な部分はすべて取り除き、曲がった部分はすべて正すべきである。」
これはアレクサンダー・テクニークのプライマリー・コントロールとインヒビションとディレクションとミーンズ・ウェアバイの過程そのものと言えましょう。
「削り、あるいは滑らかにし、あるいは磨き、あるいは拭い」は、インヒビションとディレクションとミーンズ・ウェアバイの行うこと、そして大理石から掘り出される顔がプライマリー・コントロールです。掘り出されない顔は、例え素晴らしい物であっても、単なる可能性に過ぎません。
そしてそのようにして歩いた人だけが、いまだ存在しなし、表現されてこなかった、実現されてこなかった、未発の可能性をヴィジョンとして与えられ、実現することができるのです。
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