二天一流の創始者 宮本武蔵先生の『五輪書』にアレクサンダーテクニークの原理を分かりやすく表現した文章を見つけましたので、紹介します。
はじめに-アレクサンダーテクニーク教師かわかみひろひこと宮本武蔵の二天一流との関わり
私は二天一流の修業者でもなく、伝書研究者でも、武道家でもありません(せいぜい武道愛好家くらいなものです)。
そのような私がこれから『五輪書』を引用し、その解釈を行うことは、本来はふさわしくないことかもしれません。
しかしながら、そうすることで、アレクサンダーテクニークを、みなさんに分かりやすく説明できると思いますので、あえて引用と解釈をさせていただきます。どうかご容赦ください。
この文章を書いた時点は二天一流を学んでいませんでしたが、2015年7月に福岡県太宰府市在住の細川家伝統兵法二天一流 第11代師範 宮田和宏先生に入門しました。2017年に兄弟子 深谷俊文先生が上京され、今は主に兄弟子から学んでいます。なお兄弟子は2019年5月に免許皆伝を許され、第12代師範となりました。
五輪書の一節にアレクサンダーテクニークの原理が書かれていた
『五輪書 水之巻』に『たけくらべといふ事』という1節があります。
岩波文庫版を引用させていただきますと、
「たけくらべといふ事
たけくらべといふは、いづれにても敵に
入込
む時、我身のちぢまざるやうにして、足をものべ、こしをものべ、
くびをものべて、つよく入り、敵のかほとかほとならべ、身のたけをくらぶるに、くらべかつとおもうほど、
たけ高くなって、強く入る所、
肝心也
。
能々工夫有るべし。」
私の訳・解釈を付すと、
たけくらべ(背比べ)というは、いつでも相手の剣と相手の体の間に入ろうとする※1決定的瞬間
に※2 わが身が縮まないようにするために(あらゆる活動には筋肉の緊張が必要になりますが、反対のお仕事をする拮抗筋を緊張させたら、動きが固まります。このような全身の拮抗筋同志の共収縮や同時収縮が起こると、宮本武蔵という方がおっしゃるように身が縮まります)、「足が長くなる、腰が長くなる、頸が長くなる」と思って※3、
勢いを持ったまま入り、相手の顔と自分の顔とを並べ、もし背の高さを比べたら、「自分の方が背が高いのだぞ」と思うほど、「からだ」が大きくなるのを自分自身に許して、堂々と力強く入ることが、肝心である。よくよく工夫しなさい」
※1 『たけくらべといふ事』の前には『しうこうの身といふ事』『しつかうの身といふ事』が記されている。
水之巻のなかでは、もっとも刺激が強く、恐さを感じるであろう動きのあとに、『たけくらべといふ事』
が記されていることは、注目に値する。
※2 あえて『入ろうとする決定的瞬間』という訳を用いた。それは、まさに動こうとする決定をくだしたときに、
体を縮める習慣的な反応(これからのしようとしている動きに対する有害な動き=くせ)が出やすいからである。
※3 行間を読んで『思って』を補った。
この一節「たけくらべのこと」のアレクサンダーテクニーク教師かわかみひろひこの解説
いささか蛇足のように感じながら、この解説を書きます。
宮本武蔵という方は「手足を伸ばせ」とか「全身をつっぱれ」と言っているのではありません。残念ながら、そのように誤読される著名な作家の方や武道の先生もいらっしゃいますが、読解力を疑います。
では何を言っているかというと、刀を構えている相手に自らが近づくその刹那、身が縮みそうになって、自分のしようとする動きをじゃまする。また相手からは動きの起こりがバレバレになります。
そのように身が縮むことを防ぐために、そして相手に動きの起こりが悟られないようにするために、脚や腰や首が「長くなるように」と思うことを書いているのです。
訳をつけた後で、わざわざ解説を補ったのは、訳をつけても意味を理解しない方があまりに多かったからです。
したがって、この文章で重要なことは、いちばん大事な目的が「足が長くなる、腰が長くなる、頸が長くなる」ということではありません。また稽古する相手、あるいは戦う相手と背比べで勝つことでもありません(残念ながらご自分の誤解を前提に、宮本武蔵という方を武道の素人だという作家の先生がいらっしゃいます)。
そうではなくて、大事なのは、お稽古においては相手との関係において自分の役割をしっかりと果たすこと、戦いにおいては生き延びることということではないかと思うのです。
そのための水之巻冒頭にある利方(利益のある方法→ふさわしい方法-アレクサンダー用語のmeans whereby)の
ひとつが、『たけくらべといふ事』であろうと。
『たけくらべといふ事』は手段であって、目的ではないのです。アレクサンダーテクニークの用語をもちいれば、間接的な手順(indirect procedure)ということになりましょう。
それは、自分自身の身を縮めて、本来できる自分自身の動きを制限して、不自由なものにしてしまうことを避けるための方法なのです。
武道の伝書、中国拳法、あるゆる芸事の伝書や教本に、「からだ」の方向について記してあります。
新陰流の伝書には「腰を天井から縄で吊られるように」、
太極拳では「虚領頂勁・気沈丹田・含胸抜背・沈肩墜肘・・・」、
バレエでは「頭を吊り上げるように」などと様々な注意が書かれています。
しかし、少なくとも文献上は、なにかをしようとするときにわが身を縮めそうになる。それを防ぐために「からだ」の方向を意図するという文脈では書かれていません。
そういう意味では宮本武蔵という方や、アレクサンダーテクニークの発見者F.M.アレクサンダー(1869-1955)という方の視点や教え方は教育の歴史の中で画期的だったと言えるでしょう。
そのようにとらえると、この新免武蔵藤原玄信(宮本武蔵)という方の語っていることはアレクサンダーテクニークの原理を的確に表現していると言えるし、少なくとも矛盾はしないのです。
「五輪書 火之巻」には相手と戦っていて、気持ちがもつれてきたら、その「もつれ」をやめなさいと書かれており、ますますアレクサンダーテクニークに似ているように感じられます。
手順の重要性はアレクサンダーテクニークも共通します
私は手段だから目的より大事ではないとは思いません。
むしろ、さまざまな活動・動きに応用が効くことを考えると、その場しのぎの方法をたくさん暗記するよりも、この間接的な手順を身につけることこそ、実は様々な種類の芸事のお稽古の眼目のようにすら思います。
しかしながら、仮にその間接的な手順を身につけることを目的にして、その目的に向って突進しても、絶対に身につくことはないのです。
アレクサンダーテクニークは日本人の道だった
『剣談』(平戸藩主で心形刀流免許皆伝 松浦静山著)に「道場は楽屋で、日常が舞台だ」ということが記されていますが、日本の武道は、少なくてもかつては、大きな刺激を目の前にして、それを間接的な手順で、身を縮めるという反応をやめて、別の選択肢を選ぶことを含んでいたので、その間接的な手順を使うことに熟達し、それが日常生活や治世に応用できたのでしょう。
アレクサンダーテクニークは、オーストラリア人によって発見されましたが、古くは日本人の道でもあったのだろうと思います。
アレクサンダーテクニークの学校のメルマガ
更新日:2019年6月4日
更新日(レイアウト変更):2011年4月19日
更新日:2003年12月25日
執筆日:2003年10月11日
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