初出 mixi 2013年02月06日 00:10
1999年は、立て続けに行動した年でした。
アレクサンダー・テクニークの東京での最初の教師養成コースを仲間たちとオーガナイズし、教師養成コースをスタートさせた年でした。
通訳スタッフを集め、ベテランの海外の教師を説得し、日本で当時もっとも長く教えていた2人の教師のうちの1人-に―-京都にいて、8ヶ月間私の個人レッスンの先生でした、私は月に1回彼女のレッスンを受けに行ってました―–加わってくださるようにお願いし、比較的熱心にアレクサンダー・テクニークを学んできた人たちにお声をかけ。。。
いよいよ教師養成コースが4月にスタートできることになった時、私は当初そのコミュニティから立ち去る予定でした。
しかしその頃になって、集まった人たちが本当にそれほど熱心にアレクサンダー・テクニークを学びたいと思っているのか疑問を感じ始め、またその頃になると、ディレクターの先生の人間性に対する不信感が強くなり(後年その心配は現実化しますが、それでも2003年くらいまでは彼はなんとか努力をしていたことは、公平性を保つために付記します)、このままこのコミュニティを立ち去ってよいのか?と疑問を感じるようになりました。
そして、当時はさほどには自覚していませんでしたが、どこかでいずれこのアレクサンダー・テクニークを身に着けて教えるようになりたいと思っていました。
サラリーマンをしながら、とうとう私はアレクサンダー・テクニークの教師養成コースに入ることを決心し、その通りのことを始めました。
しかし、そのためには別の大きな決心をする必要がありました。当時私は、とある武道の道場に毎週土曜日に通っていました。
私たちが作った、アレクサンダー・テクニークのトレーニングはほぼ毎週4日間。
木曜日と金曜日の夜と土曜日の日曜日の午前と午後、
スカジュールは完全に重なります。
もともと”上達”する手段として、アレクサンダー・テクニークを学び始めたので、「本末転倒にはしたくない」という思いは強くありました。注1
もしかしたら、なにか芸事を熱心にしていたり、あるいはそれを生業にしている方が、アレクサンダー・テクニークの教師養成コースに入る時、いちばん悩むところかもしれません。
そういう人たちに出会った時、私は必ず言うことにしています。
教師養成コースに行く前に、まず数年間個人レッスンやグループレッスンを納得の行く教師から学ばれたほうがよいですよ。
後で気が変わって、教師になりたいと思ったときに、”単位を通算してくれる”とか、なさっている芸事をする人のなかで最初のアレクサンダー教師になるとかいう”煽り”、そういうことに囚われないほうがよいのです。
そうではなくて、もし、貴方がされている芸事において、ご自分自身がやりたいことと現実の行いとのあいだに異なっていることがあったら、そのギャップを埋めるために(その手段としての癖をやめるために)、レッスンを受けるのです。
そして、ある程度自分自身で、癖をやめることができるようになって、いっそうその芸事が上達したときに、その時点ではアレクサンダー・テクニークをある程度ひとりで使えるようになったから、もはやそれほど頻繁にはレッスンを受けなくてもよいと思うかもしれない。
―――そのように教えることが、実はアレクサンダー・テクニークの教師の1つの目的なのです。
習熟した生徒を教師養成コースに引き入れることが、アレクサンダー・テクニークの教師が教える目的ではないし、そのようなビジネス・モデルを推奨するのも、本来の道筋ではありません。
この辺りのことは、アレクサンダー・テクニークの教師たちの中にも、たまに誤解する人たいがいるので注意が必要です。
あるいは、人によっては、アレクサンダー・テクニークは、自分には合わなかったということになるかもしれません。
出会った教師がたまたま悪かったのかもしれませんが、誰もが技量を認める教師についても、そういうことは起こりうるのです(私がかつてシアトルで出会った中国拳法家の方がそうでした)。
あるいは、ごく少数の人は、このワークを多くの方たちと分かち合いたいと思うでしょう。そして教師になる決心をするのです。
たいていの海外の教師養成コースは、”入学”のための要件として、
アレクサンダー・テクニークの”個人”レッスンを50レッスン以上受けていることを条件の1つにしています(1999年当時の基準です。今は30時間に短縮されたようです)。
色々お話を聞いていると、厳密に守られているとは言えませんが、つまり別の条件が満たされているときには、弾力的な運用がされているということなのですが、このような基準を設けることで、アレクサンダー・テクニークの教師養成コースにはいる前に、
少し時間的な余裕をご自分に差し上げて(インヒビション)、
癖が起こることを防ぐためにディレクションを与えることができます。
そして、本当にやりたいのはアレクサンダー・テクニークの共振あることなのか、それとも個人的に身につければそれでよいのかどうかを問い直す機会が与えられます。
亡くなったカーリントン先生の学校では、”3年待ち”ということもザラでした。
1年に400-600時間以上のクラスとそのために支払う受講料、そして他にも受けるアレクサンダー・テクニークの個人レッスンとその受講料を支払うとなれば、そのための時間とお金を費やすこいなります。他の大事なことに村時間とお金を振り向けることは当然できなくなります。
本当にそれでよいのでしょうか? あなたが本当にやりたいことは、そうなってもできるのでしょうか?
何度も何度も自分自身に問いかける時間が必要になります。
あるいはまた、将来今受けている気に入ったアレクサンダー/テクニークのレッスン以上のものを提供できる自信があるのでしょうか?
いや、それはちょっと正確ではありませんね。それ以上のレッスンができると思わなくてもよいのです。
でも、少なくとも別の切り口で、だれかをお手伝いする自信はあるのでしょうか? そのための努力と実験を繰り返していく覚悟があるのでしょうか?
(もしそれがなかったら、貴方は貴方のご友人たちに、貴方のアレクサンダー・テクニークの先生を紹介すればよいのです。)
何度も何度も自分自身に問いかける時間が必要です。
最後のところがいちばん大事なのです。人によって表現の仕方は異なるのでしょうが、”私に委ねられた”という内なるヴィジョン、あるいは、”私を通り道にして、ワークが出てこようとしている”、その予感のようなもの。
あるいはその確信が繰り返し現れるかどうか。
我が身を振り返っても、かつての同級生たちを見ても、それがない人は、例えアレクサンダー・テクニークの教師養成コースに行っても、資格をいただいても、けっしてアレクサンダー・テクニークを人びとに伝える人になることはできません。
ご自分自身に時間的な余裕をさし上げましょう。”囚われ”から離れましょう。
重大な決心をするときこそ、アレクサンダー・テクニークの原理を使いましょう。
もしアレクサンダー・テクニークの原理が分からないのであれば、言い換えると、アレクサンダー・テクニークの原理を貴方ご自身の全身で活用できないのであれば、まずはレッスンを受けましょう。教師養成コースに入るのには、早すぎです。
注1
私がどのようにして、教師養成コースにはいる決心を最終的にしたのかについては、別に機会を設けて述べることにします。
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