Marjorie Barstow(1899-1995) は、アレクサンダーテクニークの発見者F.M.アレクサンダーから訓練を受けた第1世代のアレクサンダーテクニーク教師。

A.R.アレクサンダーのアシスタントを務める。

 

生涯

ブルース・ファートマンさんとレッスンするマージョリー・バーストウ師

ブルース・ファートマンさんとレッスンするマージョリー・バーストウ師

アメリカ合衆国ネブラスカ州リンカーンの富農の娘。

 

進歩的な教育を受け、大学に進み、モダン・ダンスあるいはコンテンポラリー・ダンスの祖イサドラ・ダンカンに師事して、ダンス教師となる。

 

ところがマージョリーが一生懸命教えて、生徒たちもみな一生懸命学んでいるのにも関わらず、上達する生徒たちと上達しない生徒たちとの差は雲泥の差があり、教える立場の者としてマージョリーは「いったい何が原因でこのようなことが起こるのだろうか」と思い始める。

 

そんなある日、F.M.アレクサンダーの著作を読み、”癖(くせ)”が少ない人は早く上達し、”癖(くせ)”が多い人はなかなか上達しないのではないかと思い始める。

そして、伯母に付き添われて渡英し、1ヶ月の滞在中に毎日F.M.とA.R.からレッスンを受ける。

 

その後第1回教師養成コースに参加する。アメリカ合衆国からは、もうひとりルーリー・ウェストフェルトが参加した。

冬のロンドンは寒く、教師養成コースが冬に行われるあいだは、暖炉はルーリーともうひとりの男性が占領していたという。ルーリーは、「もうひとりの背の高いアメリカ人女性は、寒さに対して忍耐強かった」と書いている(「アレクサンダー・テクニークと私」を参照した)。

 

第1回教師養成コースのあいだに行われた訓練生どうしの自主練習会は2つに分かれたが、マージョリーはパトリック・マクドナルドを中心とする会に参加。

当初の予定通り3年で訓練を終えたマージョリーはアメリカ合衆国に戻る。他の訓練生たちはあと1年残ることになった。このことについてパトリック・マクドナルドは、「彼女が優秀だったから」と発言し、マージョリー・バーロウは「お父さんが病気になったため」と記している。

 

しかし、教師訓練を終えたものの、マージョリー自身が書いているように、教え方が分からず途方にくれていたところ、ボストンで教えていたA.R.アレクサンダーからアシスタントになるよう提案され、3年間A.R.アレクサンダーのアシスタントを務める。

マージョリーが書き残していることだが、A.R.アレクサンダーのイーグル・アイと助言のおかげで、アレクサンダーテクニークを教えることができるようになった。

なお、イーグル・アイとは観察眼が優れているという意味と、とても怖い目でにらめつけることの両方を意味している。

 

マージョリーはA.R.の観察眼を受け継いだが、睨めつける傾向も受け継ぎ、後に弟子たちからバーストウ・ルックと呼ばれるほど、恐れられる。

 

バズ・ガマリーによると、A.R.のアシスタントをしていた頃のマージョリーは(教え方が)固かったそうだ(マージョリー・バーストウの弟子のキャシー・マデンの弟子の座間晶子氏からの又聞き。座間晶子氏はバス・ガマリー本人から聞いたとの由)。

 

その後ある大学のサマースクールに講師として呼ばれる。会場には90人お生徒たちがおり、それが契機となり、大人数のグループレッスンを教えるようになったという(筆者が弟子のキャシー・マデン氏より伺う。また同じ内容はマージョリー自身が後掲の参考文献に書いている)。

1957年のSTATの創設に参加せず、独自の道を歩んだ。

 

農場経営者である父が病に倒れた後は、農場経営を継ぎ、故郷に帰る。その後は、日々の暮らしでアレクサンダーテクニークを自ら実践するほか、周囲のごく少数の人たちにレッスンを続ける。

 

彼女に転機が訪れるのは、フランク・ピアース・ジョーンズの生徒のチェリストのウィリアム・コナブルビル・コナブル)が渡英し、ウォルター・カリントンのトレーニング・コースに入学するものの1年で辞めて戻ってきてから訪れた。

 

フランク・ピアースからマージョリーのことを聞いたウィリアム・コナブルは、マージョリーを訪ねレッスンを受け始める。彼女のレッスンを気に入ったウィリアム・コナブルは、多くの方たちにマージョリーを紹介し、マージョリーは全米中を教え歩くことになる。

 

その後、ウォルター・カリントンのトレーニングを終えたマイケル・フレデリックとオーストラリア人のCにより、マージョリーはヨーロッパのあちこちやオーストラリアで教えることになった。

 

晩年、可愛がっていた甥が亡くなり、失意のなか落馬事故に遭う。その落馬事故によって、悪化していた骨粗しょう症も災いし、背骨が崩れた。

しかしワークのすばらしさは変わらなかったと言われる。

 

レッスンのスタイル

主として生徒さん選んだアクティビティー(楽器の演奏やダンスなど)を教材にしてレッスンを行った。マイケル・フレデリックによると伝統的なスタイルのレッスンもしたという。

 

マージョリーがアクティビティ・ワークを行ったのは、A.R.アレクサンダーの影響であるというキャシー・マデン氏の発言もあるが、真相は不明である。

 

筆者としては、彼女が大学でウィリアム・ジェイムズを嚆矢とするプラグマティズムについて学び、後年彼女のアレクサンダーテクニークのレッスンとプラグマティズムが深く結びついたのではないかと思うが、単なる憶測に過ぎない。マージョリー・バーストウがプラグマティズムを学んだかどうかも不明である(当時のアメリカの読書人たちの多くがウィリアム・ジェイムズの本を読んでいたから、可能性は高いと思う)。

 

なお、プラグマティズムの強い影響を受けたアメリカの教育哲学ジョン・デューイは、F.M.アレクサンダーのレッスンを受け、F.M.の著作4つのうちの3つの著作の序を書いている。

 

内部リンク

F.M.アレクサンダー著「自分の使い方」のマージョリー・バーストウによる序の翻訳