日本には古くから高度なの伝統があります。

しかし、必ずしも一般の人たちに指導する方たちがもっとも優れた禅師ではないためか、一般人の修業者に禅病になる人が多いためか、また禅を学ぶ一般の人たちの中には、我執が極端に強い人がいらっしゃり、人間的魅力に極端に乏しい方たちが残念ながら少なからずいて、周囲に強烈な印象を残すためか(例えば初対面の人に、数10年座禅をしていることを延々に語ったり、初対面の方たちに一方的に説教したりする)、一般の人たちからは敬遠されがちでした(もちろん、行学ともに優れた禅の実践者の方たちは在家にも大勢いらっしゃいます)。

 

その結果、あまり質の高くない瞑想が日本に入ってくるようになりました。ここであまり質の高くない、というのは、何かをイメージする(何かを観想する)テクニックのことを申しています。

 

ところが、近年上座部仏教の比較的質の高い瞑想であるヴィパッサナー瞑想サマタ瞑想、その技法を世俗的に体系化したマインドフルネス瞑想マインドフルネス・ストレス低減法)が流入してきました。

 

アレクサンダーテクニークヴィパッサナー瞑想とを経験した生徒さんたちから、「非常に似ている」という感想をお聞きする機会が多くなり、また生徒さんたちから違いを問われることが多くなりましたので、(私の不十分な瞑想の経験では両者の違いを比較することは)不十分であることを承知しつつも違いを説明致します。

 

高度な瞑想は、自己観照を伴います。観”想”ではありません。

観照とは、心の作用が止滅して(142頁「悟りに至る十牛図瞑想法」小山一夫著 学研)、「反応することなく実在をとらえている」「身体意識を失った状態」(141-142頁 前掲)。

喩えて言うならば、無に向かう瞑想です(正確には”非”)。より正確に言えば、主体と客体との区別がなくなる境地(悟り)を目指す瞑想です。

 

C.G.ユング(1875-1961)亡き後に、エラノス会議をリードした日本人がいます。井筒俊彦(1914-1993)という方です。
この井筒俊彦という方は、我が国を代表とする哲学者の方で、文芸批評の若松英輔さんのご活躍によって、最近再び注目を集めています。

 

この井筒俊彦という方は、ギリシアの哲学者たちの自己観照ユダヤ教神秘主義キリスト教神秘主義の瞑想、イスラム教神秘主義スーフィー)の瞑想、ウパニシャッドの瞑想、が同じ構造を持つことを明らかにしました。

 

その主著のひとつ、「イスラム哲学の原像」において、次のような図を用いて、この構造を説明しています。「神秘哲学 ギリシアの部」や「意識と本質」の内容も補いました。

スーフィー的意識の5段階説

スーフィー的意識の5段階説

 

ヴィパッサナー瞑想は、悟りに向かうための準備として、物事と活動中の自己を見ます。物事と自己をありのままに観照することによって、まず自己を乱暴に扱う領域から離れ、さらに「こうすべきだ」とか「こうあるべきだ」という善悪で自己や他者を値踏みする領域から離れます。

 

アレクサンダーテクニークにも
エンド・ゲイニングにならないで(手段をすっ飛ばして、目的に突進することに対する戒め)、活動にふさわしい手段(ミーンズ・ウェアバイ)を取る
ジャッジしない(よいかわるいかという判断をしない)

という警句があります。

アレクサンダー・テクニークも刺激に反射的に反応する=自己を乱暴に扱う領域から離れ、さらに「こうすべきだ」とか「こうあるべきだ」という善悪で自己や他者を値踏みする領域から離れます。

 

ここまででしたら、アレクサンダーテクニークは、自己観照のための準備としてのヴィパッサナー瞑想ともほぼ同じと行ってもよさそうです。

 

サマタ瞑想を行う前に行じるヴィパッサナー瞑想は、経験的世界に反応します。別の言い方をすると、心の作用の止滅しません。したがって観照とは言えず、観照のための準備のための観察と言えるでしょう。

 

「「ツォンカパも「菩提道次第論」に「先に止住を達成してから、それに依って勝観を修習する」と書いているように、止観には順序が決められており、”止なくして、観はない”ということだ」」(145-146頁「悟りに至る十牛図瞑想法」小山一夫著 学研)。

 

実際アレクサンダーテクニークでも、ほぼそれに近いことを行います。

 

 

しかし違いはあります。
ヴィパッサナー瞑想はあくまでも悟りを目指すための通り道です。
ヴィパッサナー瞑想と比較すると、アレクサンダー・テクニークには次のような特徴があります。

経験的世界に積極的な価値を認めること。あるいは現世に肯定的価値を認めること。生々しい現実を幻とは考えません。

日常で周囲との社会的なつながりを保持しながらその活動を行うこと、そして周囲の人や環境の変化に適切に反応することを積極的に評価していること。

芸事やある仕事の技術を行うのにアレクサンダー・テクニークの原理を使うのであれば、その芸事やその仕事の技術のその技を高めて行くこと、作品の質を高めていくことに肯定的な価値を認めていること。

表現者であれば観衆や共演者とのインタラクティブなつながりを持ちながら、その関係を表現の豊かさに広げて行くことに公的的な価値を認めていること。

 

 

当然注意の払い方も異なります。下図は私見です。

図解 アクティビティとディレクションを注意の統一場から俯瞰する

アクティビティとディレクションを注意の統一場から俯瞰する

悟り

青◯が悟りの状態

左図の青い楕円は、「注意の統一場」(片桐ユズル先生の訳では「意識の統一場」。複合意識と呼ぶ方もいらっしゃるようです)

 

瞑想(ただし質の高いもの)は、経験的世界から離れます。そうでなければ、主体と客体の区別のない世界には行けませんので。右図の青い円が悟りの状態を表しています。

 

したがって、当然、両者の本来の目的が異なるので、具体的な手段も異なります。

 

アレクサンダーテクニークには、私たちの癖、何かをしようとした瞬間に、身体中の筋肉を固める強い傾向(生理学的には拮抗筋同士の共収縮)をやめるための具体的な方法論を備えています(たとえばインヒビションディレクション)。

舞台で声を失った役者が自分のために発見していったプロセスですので。

 

 

もしあなたが、アレクサンダーテクニークとヴィパッサナー瞑想やその他の高度な瞑想と、どちらを学ぶのか迷われたら、ご自分のやりたいことを改めて見つめましょう。

 

 

もちろん、両方とも学ぶこともできます。

 

在家の私たちは、社会活動を行う必要があります。働く必要があります。

ヴィパッサナー瞑想の、痛みから自由になる効果はよく知られていますが、それは”なくなった痛み”から解放されるだけです。これは、小さくなった背外側前頭前野が再び大きくなることによる効果です。これに関してはこちらをご参照ください。

もちろんそれだけでも大きな効果ですが、今活動中に「からだ」を実際に傷めつける癖(くせ)がなくならない限り、すなわち原因を解決しないかぎり、活動中・活動後の違和感や痛みは続くのです。

アレクサンダー・テクニークは、ヴィパッサナー瞑想をされる方たちにも役立ちます。

 
 

アレクサンダー・テクニークでは、どのような注意をどのように向ける必要があるかについては、こちらをご参照くださいませ。