アレクサンダーテクニークの教師たちと教師を認定する協会のとっても はしょった歴史

2011年4月19日更新 文献の注を補う
2004年11月3日更新
2003年12月26日掲載

はじめにアレクサンダーテクニークのはしょった歴史を書くにあたって

これからアレクサンダーテクニークのはしょった歴史を記すに当たって、なるべく公平に記述するつもりだ。

しかしお読みになる方は、私が歴史研究者ではなく、主に「2人のアレクサンダー兄弟→マージョリー・バーストウ→ウィリアム・コナブル、キャシー・マデン→かわかみひろひこ」という 経路で教えを受けたアレクサンダーテクニーク教師であること、つまり当事者であることを了承いただきたい。そのために記述に多少偏りが生ずることは ご容赦いただきたい。

また、この文章は歴史の記述なので、敬称を省略させていただくこと、そして先達たちへの私の敬意は揺るぎないことをご了解いただきたい。

F.M.アレクサンダーの誕生とアレクサンダーテクニークの始まり

1869年オーストラリアのタスマニア島でF.M.アレクサンダー(1869-1955)誕生。

舞台俳優になるが、声のトラブルに悩み、一時俳優業を中断。

しかし持ち前の探究心と並はずれた観察力と意志の力で、声のトラブルのトラブルの原因になっていた癖(くせ)、そして生活全般に及ぶ根強い癖をやめていく方法、つまりアレクサンダーテクニークを発見。俳優業に復帰。

そして1894年頃から、今日アレクサンダーテクニークと呼ばれることになる方法を教え始める。

当時は彼はBreathing Manというあだ名で呼ばれ、声のトラブルを抱えた人たちだけではなく、呼吸器系のトラブルを抱えた人たち(喘息患者を含む)が大勢彼から学び、自分自身の課題をクリアーし、あるいは症状を改善した。

メルボルンに俳優養成学校を作り、のちにシドニーの俳優養成所から校長として招聘された。

F.M.アレクサンダーの弟のA.R.アレクサンダーが助手として教え始めたのも、この頃である。

1904年にF.M.アレクサンダーはイギリス渡る。以降、世界大戦の時期を除くと、彼はイギリスを中心に活動した。

F.M.アレクサンダーの渡英と当時のイギリス

アレクサンダーテクニークの発見者F.M.アレクサンダーテクニークがイギリスに渡った当時は、ヴィクトリア女王(在位1837-1901)の治世からわずか後であり、一般的には身体に対する表現が制限されていたとされる時代であった。

例えば、「『脚』って言葉すら人前で口に出してはいけない破廉恥なもの」※1だったと言われている。

しかしこの時代は、イギリス美術史上それまでになく裸体画が多く描かれた時代でもあり、またこの時代に ついて「ビクトリア朝のモラルそのものが虚実入り混じったあやふやな神話だった」※1との指摘もある。

実際にどの程度身体に対する表現が制限されていたのか、それがF.M.のレッスンや著作における表現にどのような制限を与えたのかに ついては、慎重な検討が必要とされよう。

また、心霊主義というオカルティズムがはやった時代で※2、当時存在していた団体のなかには今日存続する団体もある (このイギリスに おけるオカルティズムの隆盛は、のちに日本の大正時代の霊術ブーム、今日風に言えば気功ブームに影響を与えたとされる。野口整体臼井式霊気法-レイキもこの潮流の中から生まれた※3)。

しかしF.M.は、心霊主義に対しては、終始非常に冷淡であった。そのため当初語っていた人間の霊性(スピリチュアリティー)に関する発言が少なくなったと言われている(彼らの存在を知り、世間から彼らといっしょにされることを恐れた)。

また、個人的には残念だが、彼のアメリカ 大陸先住民たちに対する考えは、当時の多くの欧米人の持っていた偏見(アメリカ先住民は野蛮であるという偏った見解)と大して変らなかった。

そのくせ、 晩年の彼は「3日前に誰に会うのか分かる」と言ったとも伝えられ(ハッタリかもしれないが)、まるでアメリカ先住民のメディスンマンのような発言もした。

なお、F.M.アレクサンダーの科学者や文化人の支持者についてはF.M.アレクサンダー(アレクサンダーテクニーク用語集)をご覧ください。

3番目のアレクサンダーテクニーク教師たち

1931年に第1期トレーニングがスタートするのだが、それより前にF.M. アレクサンダーから個人レッスンを受けていたアイリーニ・タスカーエセル・ウェブのふたりが、F.M.アレクサンダーから教えてよいという許可を受けた。アレクサンダー兄弟以外の最初の教師が誕生したのだ。

ふたりはF.M.アレクサンダーの著作USE OF THE SELF(「自分の使い方」)の執筆を手伝った※4。

アレクサンダーテクニーク教師のトレーニング開始と第一世代の教師たちについて

1931年 F.M.アレクサンダーはアレクサンダーテクニーク教師の第1期トレーニング・コース開始。

1934年 第1期トレーニング生のなかでアメリカ人女性マージョリー・バーストウ唯1人が F.M.から教える許可をもらい、アメリカに帰国。そして彼女は、ボストンで教えていたA.R.アレクサンダーの助手をしばらく務めた。

その事実から、彼女はA.R.の教え方の影響を大きく受けたと言う人たちもいる。

ちなみに、F.M.アレクサンダーの教え方は、椅子から立ったり座ったりという動きや、つま先を開いて 片方の脚を大きく1歩前に出すという動き(ランジ)などの動きの教材(プロシジャと呼ばれる)を教師が選んで、生徒さんにさせて、その動きのなかでアレクサンダーテクニークの原理を教えるというものだった。

しかしA.R.アレクサンダーの教え方 は少し違っていて、もっと実生活のなかで行っている動き、たとえば包丁を使うとか、ものを書くとか そういう動きを通して教えることが多かったと言われている。

だが私見では、立ったり座ったり というのも日常の動きであるし、状況にもっともふさわしいあり方(ミーンズ・ウェア・バイ)を学習して行くのだから、違いは それほどなかったような気もする(実際に2人に会ったことがないので分からない)。

1935年 他の第1期トレーニング生たちが、F.M.アレクサンダーから教える許可をもらった。

その後もF.M.アレクサンダーは一般の生徒さんたちに個人レッスンをするのと並行して、教師 たちの養成を行うが(晩年はトレーニング・コースはほとんどの時間をウォルター・カリントンに 任せ、彼自身は一般の生徒さんたちに個人レッスンを行うことに多くの時間を費やしたそうだが)、 彼らF.M.アレクサンダーから教師として認定された人たちは、彼らの弟子たちやそのまた弟子 たち・・・から尊敬をこめて、マスター・ティーチャーとかオリジナル・ティチャーとか ファースト・ジェネレイション 第一世代と呼ばれている。

その彼ら最初のアレクサンダーテクニーク教師たちの生き残りもわずかになった(2022年現在、彼らは全員この地上を去っている)。

第1世代のアレクサンダーテクニーク教師たちのなかには、肉体的なハンデキャップを持ちながら、精力的に教えた人たちも大勢いた。

ウォルター・カリントン Walter Carrington は、1936年にアレクサンダーテクニークの教師トレーニングを受け始め、1939年に 教える許可を得た。彼はそのとき健常者だったが、第二次大戦に英国空軍にパイロットとして従軍し、ドイツ軍の戦闘機に撃墜され両脚を負傷。 それ以来両股関節に人工関節を入れている。F.M.アレクサンダー亡き後に、F.M.アレクサンダーのアレクサンダーテクニーク教師トレーニング・コースを引き継ぎいた。そして2005年8月、永眠する少し前まで教え続けた。そして多くのアレクサンダーテクニーク教師を養成した。

パトリック・マクドナルド Patrick MacDonald は、背骨が不可逆的に湾曲し続ける病気(先天性前弯)だった。

医師でイギリス医師協会会長の父から、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けることを勧められ、病気は一生治らなかったが、彼は常に自分自身を再方向付けることにより、背骨が湾曲し続けるのを止めたと言われている。ボクシングなどの激しいスポーツも嗜んだ。

私見だが、彼の弟子・孫弟子・曾孫弟子 の教師たちの動きは、中国国術の太極拳や意拳の体勢に似ているように思う。

トレーニング中に訓練生による自主練を呼び掛けたのは彼であったし、F.M.アレクサンダーの生前から、アレクサンダーテクニーク教師による協会の必要性を一貫して訴えた。多くのアレクサンダーテクニーク教師を養成した。

ルーリー・ウェストフェルトは小児麻痺を持っていた。少女時代に受けた足首を固定する手術は、ますます彼女が自由に動くことを制限した。アレクサンダーテクニークの教師訓練中の劇的に身体のプロポーションと動きがが改善し、アメリカに帰国後は精力的に教えた。

フランク・ピアース・ジョーンズ Frank Pierce Jones は、先天的に非常に疲労しやすい体質だった。タフつ大学心理学部教授であった彼はレッスンや著作活動を通じて、アメリカ社会にアレクサンダーテクニークを紹介した。

デボラ・キャプランは、膠原病を患い、常に痛みと向き合う必要があった。彼女はアメリカの理学療法士界にアレクサンダーテクニークを広く紹介し、アメリカにおけるアレクサンダーテクニークの発展に大きく寄与した。

他にもハンディキャップを持ったアレクサンダー教師は大勢いるが、私が特にこの5人の名前を挙げたのは、5人がアレクサンダー・テクニックの教師たちに 与えた影響が非常に大きいこと、そして5人それぞれ著書が今日も入手しやすいからである。

アレクサンダーテクニークの他の心身教育への影響

アレクサンダーテクニークとロルフィングとフェルデンクライス・メソッドをアメリカでは3大心身教育(somatic education)と呼ぶ。

アレクサンダーテクニークは他の2大心身教育に大きな影響を与えた。

F.M.アレクサンダーはフェルデンクライス・メソッドの創始者 モーシェ・フェルデンクライス博士にもレッスンをし、大きな影響を与えた(フェルデンクライス博士はF.M.の死後しばらくたってF.M.の孫弟子-マクドナルドの弟子からもレッスンを受けている)。

またストラクチャル・インテグレーション、ロルフィングの創始者アイダ・ロルフ博士も1930年代にアレクサンダーテクニークを含むいくつかのワークを10年くらい受けていた。

アレクサンダーテクニークの初等教育への適用- 2つの世界大戦のあいだのある時期

2人のアレクサンダーは、小学校を設立し、そこで教えた。その教育成果が どれほどすばらしかったかについては、『アレクサンダーと私』 (ルーリー・ウェストフェルト著 壮神社 絶版)にわずかに記されている。

校長はアイリーニ・タスカーが務めた。

アレクサンダーテクニーク発見者F.M.アレクサンダーの死

1955年に、アレクサンダーテクニークの発見者で、偉大な教師F.M.アレクサンダー逝去。

STAT(Society of Teachers of Alexander Technique)設立

1958年教師の水準を維持するために、アレクサンダーテクニーク の教師たちにより、STAT(Society of Teachers of Alexander Technique)がイギリスにて設立された。

設立が F.M.の逝去後なのは、多くの教師たちやがF.M.の支持者たちが協会の設立を望んでいたのにもかかわらず、F.M.アレクサンダーが協会の 設立に反対していたからであった。

したがって、今日存在するすべてのアレクサンダーテクニークの教師たちの 団体のなかには、F.M.アレクサンダー自身が設立を認めた団体は1つもないことを明記しておく。

STATのとった方式は、トレーニング・コースを認定し、そこを卒業した人が教師としてSTATに加わることを 認めるというものだ。

現在のトレーニング・コースの認定基準は、教師になるためのクラスが1600時間以上、 1日3時間以上行わない、 解剖学・生理学を学ぶ、F.M.の書いた4冊の本を学ぶ等、これらの基準は時代とともに少しずつ変ってきたし (厳しくなったり緩和したり)、わたしが知っているだけでも、必ずしも要件を満たしていなくても認定され ているケースが数件ある。学校の認定を行うときの認定委員たちによって、運用にかなりの開きがあるように 思われる。

その後各国にSTATと提携する団体が設立され、現在にいたる。

アメリカ合衆国 United States of America (AmSAT) 設立当初はNASTAT

イスラエル Israel (ISTAT)

オーストラリ Australia (AUSTAT)

オランダ Netherlands (NeVLAT)

カナダ Canada (CANSTAT)

スイス Switzerland (SVLAT)

スペイン Spain (APTAE)

デンマーク Denmark (DFLAT)

ドイツ Germany (GLAT)

ニージーランド New Zealand (ATTSNZ)

ブラジル Brazil (ABTA)

フランス France (APTA)

ベルギー Belgium (AEFMAT)

南アフリカ South Africa (SASTAT)

五十音順。

なお、日本にはまだ提携団体が存在しないが、遠くない将来 STATの日本人メンバーが集まって、提携団体を作るであろう。

ATI(Alexander Technique International)アレクサンダーテクニーク・インターナショナル設立

ところでアメリカ合衆国ネブラスカ州リンカーン市に住んでいたマージョリー・バーストウは、 フランク・ピアース・ジョーンズを除くと、 同僚の教師たちと長いあいだ交渉を持たなかった。

また農場経営者として多忙でもあり、 ウォルター・カリントンや パトリック・マクドナルドのように大々的に教えることがなかった。

そのようなこともあって、彼女は STATには加わらなかった。しかしSTATの設立を知っていても、加わらなかったよう な気がする。なぜなら彼女は自主独立の人だったし、彼女自身はビル・コナブルによっ て広く紹介されてから多くの教師を育てたが、団体を立ち上げようとはしなかったから。

そのようなこともあり、 当初マージョリー・バーストウの弟子たちは、協会を持っていなかった。その一方でSTATの教師の認定を得た教師たちのなかに、マージョリー・バーストウに師事する教師たちが現れ始め、人的交流が進むと、ますます協会設立の機運が高まった。

1992年、フランク・ピアース・ジョーンズの弟子 トミー・トンプソンTommy Thompsonやマージョリー・バーストウ の弟子ブルース・ファートマンが呼びかけて、アレクサンダー・ テクニックのより建設的な発展を目指して、必要性を感じた 教師たちによりATI(Alexander Technique International)が設立された。

2002年より数年間キャシー・マデンがチェアマンを務めた。なお彼女は、ワシントン州立大学の演劇学科の准教授であり、1998年以来毎年日本に1ヶ月教えにいらっしゃる。

ATIの教師認定基準は、保証資格sponsorshipを持った3人の教師 が保証すれば、教師として メンバーに加わることができるというものだ。この保証人になるためには、ATIの公認教師たち の過半数の賛成を得なければならない。

ATIにおいては、トレーニング・コースに通うことは、教師になるために必須ではないが、今日ではトレーニング・コースで訓練された教師たちが非常に多い。ちなみに マージョリー・バーストウは多くの教師を育てたが、トレーニング・コースを作らなかった。

ところで、日本在住の教師たちのなかには、ATIの保証人資格を持った教師たち3人から 保証を受けたのに、ATIに申請を行わないために、認定教師リストに記載されていない人がいる。 何人かの人たち質問したら、次のような答えが帰ってきた。「日本では恩恵が得られないから」、 「アメリカ合衆国への会費の送金手続きが面倒だから」、「団体に保証してもらわなくても自分 は教師であるから」、「自由を束縛されたくないから」等々。いろいろな理由や考え方があるのを知った。

私自身は、そのほうが学び続ける上で便利なので(海外の教師向けの勉強会に参加するのに必要なことがあるから)、ATIに申請しATIから認定された。

STATとATIから離脱するアレクサンダーテクニーク教師たち~それぞれの道へ

多くの教師たちが協会に加盟して行く一方で、それぞれの団体から離脱する有力なアレクサンダー ・テクニックの教師たちもいる。

さまざまな体操の手順を考案したネヘミヤ・コーヘンは、当初 アレクサンダーテクニークの教師として活躍し、教師のトレーニングも 行っていたが、STATから離れ、カナダを中心にミツヴァ・テクニック として教えている。カナダではアレクサンダー・テクニックよりも幅広く社会に知られている。 日本でも近年ワークショップが開催されているそうである。

デイビッド・ゴーマン David Gormanは、第2世代の有力な教師だったが、 STATを脱退した(ただしATIに加入した)。 彼は今Learning Methodsという名称で、ヨーロッパやアメリカで教えている。

ATI設立の中心人物の1人で、日本とも馴染みの深いブルース・ファートマンは AA(Alexander Alience)を設立し、独自の道を歩んでいる。

また、ドン・ウィードはITMセンターという名のトレーニングコースを作り、 イギリスを中心に独自の展開をしている。ちなみにITMとは、インタラクティブ・ ティーチング・メソッドのこと。

初めからいずれの団体に参加しなかった有力な教師も大勢いた。例えば、 ボディー・マッピングの創始者としても知られるウィリアム・コナブルは、どこの団体にも属さなかった。しかしSTAT系のトレーニング・ コースやATI系列のトレーニング・コースでも幅広く教え、後年NASTAT(現AMSAT)から認定教師として迎えられた。現在はATIにも加入している。

さまざまな立場のアレクサンダーテクニーク教師たちの建設的な関係

STATとATIやITMなどの協会やその他のグループは、それぞれの団体の会議を開催している。

その一方で、完全にいずれの教師の組織からも独立したアレクサンダーテクニーク国際会議委員会主催で、3年から4年に1回共同で国際会議を開催している。

2004年8月にイギリスのオックスフォードで開催された国際会議には、私自身も参加した。

アレクサンダーテクニーク教師かわかみひろひこの思い

教師の団体について長々と書いたが、いずれの団体も人間の集まりだから、有益な機能を有し、有意義な活動を行う一方で、 適切でない決定をくだすこともあり、完璧ではありえない。

ひとりを除いて、すべての人が反対しても そのひとりの主張のほうが状況に適切な場合もありうる。

所詮そのようなものに過ぎないわけであるが、 参加する以上は、建設的な態度で向き合いたいと思う。

なお、F.M.アレクサンダーの生い立ちをもっとお知りになりたい方は、 『ボディ・ラーニング わかりやすいアレクサンダー・テクニーク入門』をご参照ください。

【参考文献】

※1 谷田博幸『ヴィクトリア朝の戦うヌード』芸術新潮2003年6月号

※2 ジャネット・オッペンハイム著『英国心霊主義の抬頭』(工作社)

※3「新・霊術家の饗宴」井村宏次著(心交社)

※4 “USE OF THE SELF” F.M.アレクサンダー著。米国センターラインプレス版のマージョリー・バーストウによる序

※5Walter Carrington著『A time to Remember』の著者紹介

その他

『アレクサンダーと私』 片桐ユズルさんによる訳者あとがき

ATIのWEBサイト www.ati-net.com/

STATのWEBサイト www.stat.org.uk/

コラムの目次はこちらに。

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アレクサンダーテクニーク教師かわかみひろひこのレッスン
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かわかみ ひろひこアレクサンダーテクニークの学校 代表
第3世代のアレクサンダーテクニーク教師。2003年より教えている。 依頼人である生徒さんへの共感力、課題改善のための活動の動きや言葉に対する観察力と分析力、適確な指示、丁寧なレッスンで定評がある。
『実力が120%発揮できる!ピアノがうまくなる からだ作りワークブック』、『実力が120%発揮できる!緊張しない からだ作りワークブック』(ともにヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)の著者。
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